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【タイ留学】学ぶことは「キャリアの断絶」ではない。好奇心を追いかけて、タイの大学院で開発学を学ぶ日野恵美さん

社会人になって働き始めると、ついつい「働く」以外の人生の選択肢がないように思えてしまうもの。日本では「リスキリング」や「生涯学習」という言葉も広まりましたが、どちらかというと定年退職後を見据えた文脈で語られがちです。でも本当は、いつでも学びたいときに学ぶ選択肢があっていいはず。日野恵美さん(36)は、タイの東大といわれるチュラロンコン大学院で、ずっと学びたかった開発学を学んでいます。夫のタイ転勤を機に大学院進学を決意した日野さんの大学院生活やキャリアについての考えを紹介します。

タイの「東大」に留学、国籍多様なクラスメート

――今はタイに住みながら、大学院に通ってらっしゃるのですね。学んでいる内容について教えてください。
チュラロンコン大学(チュラ大)
の政治学部(Political Science)国際開発学学科(International Development Studies)です。2022年9月に入学しました。もともと1年のプログラムなのですが、内容があまりにもきつくて、1年で修士論文まで終えて卒業する人がほとんどいないんです(苦笑)。わたしも毎日修士論文に取り組んでいるところです。

――チュラ大はタイの東大といわれる一番有名な大学ですよね。日本にいた時はまさかタイの大学院に行くとは考えたことがなかったと思うのですが、どんなことを学んでいますか?

授業では幅広く、開発学とはなにか、開発のセオリーとはなどということから学びました。わたしは大学では韓国語専攻で、学部の知識がなかったので、基礎知識を入れることにも苦労しました。ジェンダー、貧困、移民、環境問題、経済というトピックも学んでいます。

――授業はどのように進むのですか?

週に4,5コマあったのですが、1コマが3時間とめちゃめちゃ長いです。だから、授業の準備だけでも大変でした。事前に読むべき課題として、本や論文がすごく多いんです……。授業は事前課題を基に進められて、積極的に発言をしていくスタイル。それに加えて、チームプレゼンテーションがあるので、クラスメイトと意見をぶつけて、スライドを作っていくという作業も……。ほんっとに大変で、あの頃のことは全然思い出せないですね……(笑)。最初の1年はほぼ毎日深夜2時、3時まで勉強していました。

――うわぁ、それは大変でしたね。かなり欧米スタイなのですね。

先生方もタイ人の教授が少なくて、欧米出身の教授が多いです。開発の現場で活躍された先生もいらっしゃって。

――クラスメイトはどういう人がいるのですか?

同じ年に入学したのが25人くらいです。ミャンマーからが一番多くて、タイが3名、あとは中国、台湾、ケニア、ナイジェリア、アメリカなどですね。交換留学で来た人も、奨学金制度を使って来た人もいます。

――かなり色々な国から来てますね!年齢や性別などはどうですか?

年齢は20後半~30前半がほとんどで、大学卒業後に何年か働いてから学びに来る人が多いです。性別は女性が圧倒的に多くて、9割近くが女性ですね。

クラスメートたちと。日野さんは前列右から3人目

海外の同僚から刺激「このままでいいのかな?」

――ところで日野さんは、なぜ大学院に進学したいと思われたのですか?

2つ理由があって、ひとつは純粋に社会問題に興味があるからです。腰を据えて勉強したいとずっと思っていました。

もうひとつの理由は、マレーシアで働いていた時に、いい刺激をもらったんです。わたしは、日本で国際物流の業界で4年ほど働いてから、マレーシアの外資系の船会社に転職しました。そこでわたしの所属していた営業チーム15名のうち、役職についている人たちがほぼ全員MBAホルダー、もしくはMBAを勉強している人たちだったんです。仕事が忙しいにも関わらず、子育てをしながら週末に授業に出てMBAを取る人たちもいて。そういう人たちに囲まれていたお陰で、「わたしもこのままではいけないな」ということをすごく感じました。

でももちろんMBAを取ることは簡単なことではないです。時間と費用の面から考えた時に、「それだけの興味があるだろうか?」と思いました。そうでないのであれば、自分が興味のある分野で、修士号を取りたいなと思いました。

――そういう経験があったのですね。もうひとつの理由として、社会問題にも興味があったのですね。なにがきっかけでしたか?

大学生の頃から、ライフワークとしてボランティアに取り組んできました。韓国のハンセン病の療養所へ行ったり、東日本大震災のがれき撤去をしたり。マレーシアで働いていた時も、アフガニスタン難民の子どもたちへ金銭的なサポートもしていました。でも、なかなかボランティアの域から出なくて。もう少し専門性を高めたいなと思っていました。

――では、今後は開発や支援の領域で働いていくお考えですか?

そうですね。大学院に入る時の志望動機書には、今まで経験してきた物流と社会問題を掛け合わせて、緊急支援物資の物流に関わりたいと書きました。災害や紛争地域は、必要な時に必要な数だけ物を届けることにまだ課題の多いフィールドなんです。修士論文もこのテーマで書いています。修了したら、たとえば国連の国連世界食糧計画(WFP)などで災害地や紛争地の支援に関われるような仕事がしたいですね。

――なるほど。そこに行くと、今までの経験と知識が掛け合わされますね。こういう方面に進むことは、いつ頃から思い描いていたのでしょうか?

大学時代にボランティア活動をしていた影響が強いと思います。NPO法人に所属をしていたのですが、学生だけでなく幅広い年代の社会人もいるような団体でした。農家の人もNYの国連本部で働いているような人も所属していて。学生の時にいろんな大人を見る機会があったからこそ、いつか人の役に立つような開発や国際協力の分野で仕事をしたいということは考えていました。

――就職する時に、最初からその分野に行くことも考えましたか?

きっと当時から憧れはあったと思います。ただ当時は、国際協力に貢献できる民間の力を信じていました。韓国語専攻だったので、韓国語や英語を活かして国際的に働ける仕事はなんだろうと考えて、物流業界に行きました。

――まずは日本で物流業界の経験を積み、マレーシアに行かれたのですね。なぜマレーシアには行かれたのですか?

やってみると、物流の仕事がとても肌に合っていまました。さらに物流の知識や経験を高めたいと思い、「海外で働きたい!」という気持ちが膨らみました。マレーシアでは、日系企業と韓国企業の営業担当というポジションで、日英韓の3か国語で仕事をしていました。

――マレーシアで駐在員で来ていた旦那さんと出会い、結婚され、旦那さんのタイ転勤を機にバンコクに来られたのですよね。タイで働くという選択肢もあったと思いますが、進学をすることに悩みませんでしたか?

正直迷いました。どっちの道に進むのか。前職の支店がバンコクにもあったので、そのまま勤務し続けることもできました。けれど正直言うと、6年間マレーシアで本当に仕事に没頭していたんです。バーンアウト寸前だったので、「タイでも同じくらいまた頑張れるのかなぁ…」という迷いがあって。同じように働き続けることをポジティブに考えられなかったんですよね。人材会社にも登録して、色々な物流のポジションの紹介も受けたのですが、あまりいい方向に考えられず、いい機会機会だから大学院へ進学しようと決めました。

マレーシア、食事風景

葛藤は「めっちゃあった」、好奇心が背中を押した

――とはいえ一度働き始めると、働く以外の選択肢がないように思えるのも。それ以外の選択肢を選ぶには勇気がいりませんか?日野さんも葛藤もあったのではないでしょうか?

めっちゃありました!「仕事をしない=収入がなくなる」ということじゃないですか。それに対する不安はめっちゃありましたね。

――一番大きい不安は収入がなくなることでしたか?

収入がない中、学費のために貯金を切り崩すことへの葛藤がありました。主人から「大学院に行って、授業料を支払って、卒業した後に学費分はどう回収するの?」と聞かれた時には、「具体的なプランはないけれど、挑戦してみたい」としか返事ができない自分もいました。

――それでも大学院に行くと決めたのは、どんな気持ちが大きかったですか?

ひとつは学びたいという自分の好奇心。それと修士号を持つことは、これからキャリアを築く上できっと助けになるはずという考えです。WFPの募集要項として「開発学の修士号を取得していること」も要件のひとつになっていたこともあり、将来のキャリアのためにも修士号をとっておこうと思いました。

――学生の頃から思い描いていた道への第一歩ですね。学んでみてどうですか?

やってよかったなってすごく思います!ずっと挑戦してみたかったので、達成感と満足感があります。授業内容も充実して、学びたいことを学べて、めっちゃ嬉しいですし、幸せです!

――一方で、学費が負担になるのは事実で、旦那さんの意見も現実的ですよね。特に欧米では授業料だけで1年間で1千万円というレベルも。でも不思議と「行かなければよかった」と後悔する人はあまり見かけなくないですか?

そうですね。何よりも自分で身銭を切らないといけないので、どんな風に転んでも「行ってよかった」と思えるように必死になるのではないでしょうか(笑)

――確かにそうかもしれません(笑)

でもやっぱり貯金が目減りしていくのは恐怖ですね……(笑)

――ちなみに、チュラ大の大学院の授業料はどのくらいでしたか?

1年目は、申請すれば必ずもらえる大学の奨学金があるので、学費で60万円程でした。2年目は、えーっと…ちょっと怖くて覚えてないのですが(笑)。2年目は確か大体100万円くらいでしたね。

出産もマイナスじゃないはず。キャリアを柔軟に

――修了後はタイで仕事を探す予定ですか?

それはめっちゃ悩みますね。まだ決めきれていないです。主人はまだ4,5年はタイに駐在する予定だと思うのですが……。

――旦那さんの仕事の都合によって住む場所が変わることもありますものね。もしWFPで働くとしたら、タイでも募集はありますか?

いろんなポジションで募集がかかっていますよ。1年契約も多いので、今の自分にはすごく合っていると思います。マレーシアに行って、雇用形態は重要ではないなと気づきました。何をしてきたのか、何ができるかが重要で、採用する側もそれを見ているのだなと。1年契約というのは不安定ともいえますが、もっと本質的なところを見られているので、そこは問題ないと思っています。特に国際機関では、常にいろいろな拠点でポジションの空きがあるので、一度入ってしまえば、次の希望があれば組織内でアレンジしてくれることもあるみたいです。

――国際機関ではそういう話をよく聞きますよね。

なので今は一旦、修士論文を終えて、その時の状況で考えようと思っています。というのも、出産のタイムリミットも近づいているので、あまりにも緻密な計画を立てるとストレスになるかなと思って。目の前のことをやり終えたら、考えようと思っています。

――日野さんは新卒から10年以上働くことをキャリアの中心においてこられましたよね。そこから、学ぶことをキャリアに組み込んだことで、何か考えは変わりましたか?

変わりましたね。大学院に行く前は、もう一度学び直すことを「キャリアの断絶」、「キャリアの空白期間」だと思っていました。今思うのは、この時間もキャリアの過程の上にあるんだということです。安定的な収入がないことへの不安はありますが、働いていない期間があることで、次の仕事が見つからないのではないかという不安は全然ないです。向かうべき道の過程にいると思えるようになりました。

――これから出産、育児を迎えるとすると、また働かない期間が生まれますよね。そうした時間への考え方も変わるでしょうか?

それもキャリアの過程、というよりも人の人生の一部として捉えたいなと思います。そうやって頑張っている女性の方々をすごく尊敬しますし、そうなれたらいいなと思う気持ちもあります。

一方で、面接で「お子さんはいますか?」「何歳ですか?」という質問があった時、採用側から「この人はきちんと仕事ができるのか」とネガティブに捉えられたらどうしようという不安要素もありますね。そうであってはいけないんですけど。でもきっと、今私が思っている不安は、実際にそういう状況になったら「意外とできたじゃん!」となると思います。

――学ぶことをポジティブに捉えることができたようにですね。

そうですね!やりたいことをやっている時が、一番自信を持てるのだと思います。逆にそうでなかった時の自分も知っているので。主人の都合でタイに引越して、まだ大学院にアプライする前は、日中やることもなく、バンコクもよく分からず、知り合いもいなくて……。自分らしく生きていけない時のぼろ雑巾のようだった自分もよく知っています(笑)。だからこそ、やりたいことをやるということは一番大切だなと思います。

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